こんにちは。シオタニアキラ(@akiraaaaa_man)です。
「最近の新卒やばくない?」
指導したら「傷つきました」
改善点を伝えたら「否定されました」
期限を確認したら「プレッシャーです」
「じゃあどうやって成長するの? いちいち傷つかなくていいから、まず仕事覚えて欲しい」
先日、Xでこのような投稿を見かけたんですが。
正直、共感する部分もありました。人を指導する立場にいると、似たようなやり取りに疲れることは僕にもあります。
ただ、この投稿を見て僕が気になったのは、「最近の若者は打たれ弱い」で片づけて、それで本当にいいんかな?ってことでした。
「傷つけないようにすること」と、「傷ついても、自分で立て直せるようになること」はまったく別の話です。
この記事では、新卒指導という切り口から、仕事で成長するとはどういうことか、人との関わり方をどう考えるかについて、僕自身の考えを整理しました。
「最近の若者は打たれ弱い」だけで片づけていいのか
もちろん、本人側の問題がまったくないとは思いません。
ただ、仕事に就いた瞬間に、人は突然「打たれ弱く」なるわけではないはずで。
失敗しないように先回りする。
傷つかないように守る。
できたことを褒める。
嫌なことは無理にさせない。
家庭でも、学校でも、社会全体でも、そうやって「傷つけないこと」を大事にしてきた結果でもあるんじゃないのか?って僕は感じたんです。
だとしたら、新卒になった本人だけの問題として語るのは、少し乱暴な気がしてきて。
「傷つけないこと」と「傷つく経験を奪うこと」は違う
誤解のないように先に言っておくと、褒めること自体が悪いわけではありません。
「失敗しても大丈夫」
「注意されても人格を否定されたわけじゃない」
「できないなら、できるようになればいい」こういう経験まで奪ってしまったら、社会に出て突然「改善しろ」と言われても、そりゃしんどいやろ。
Threadsの投稿から抜粋
https://www.threads.com/share/DnJeAYqXP/
これは、僕がブログを書く前にThreadsに投稿した言葉です。
新卒がヤバいというより、僕ら大人のほうが、「傷つけない」と「傷つく経験を奪う」を、どこかで混同してきたんじゃないか?って思っています。
失敗しても、命まで取られるわけじゃない。注意されても、人格を否定されたわけじゃない。できないことも、練習すればできるようになる。
この当たり前を、当たり前として体で覚える機会そのものを、僕らが先回りして減らしてきたのだとしたら、僕は「打たれ弱い」というのは原因ではなく、その結果やろって思うんです。
「傷つきました」で終わると、自分が変わらなくて済んでしまう
「傷つきました」
「否定されました」
「プレッシャーです」
こういう反応を、僕は「弱さを武器にして反撃している」とは思ってなくて。
ミスを指摘されたとき、「自分の何を改善すればいいんだろう」ではなく、「傷つけられた」「相手の伝え方が悪い」という解釈に置き換えてしまう。そうすると、自分にとって都合の悪い出来事が「相手が悪い」という話にすり替わり、自分が変わらなくて済む状態が出来上がってしまいます。
これは逃避のひとつです。相手に責任を転嫁するという。
ただ、これは本人の受け止め方だけの問題でもないですね。その受け止め方ができあがるまでに、僕ら大人がどう関わってきたのか。そこまで考える必要があると思うんですよ。
「じゃあどうする?」を考える経験を、僕らが奪ってないか
「相手が悪い」で終わらせてしまう人を、意志が弱いとか、心構えができていないとか、そういう性格の問題として片づけるのは簡単です。でも僕は、もう一段手前に問いがあると思っています。
なぜ、「じゃあ自分はどうする?」と考える経験が、減ってしまったのか。
先に挙げたとおり、失敗しないように先回りする。傷つかないように守る。できたことを褒める。嫌なことは無理にさせない。
これ自体は、悪意があってやっていることじゃありません。むしろ、優しさや配慮のつもりでやっていることのほうが多いはずで。
ただ、その優しさや配慮が積み重なった結果、「うまくいかなかったとき、自分で立て直す」という経験まで、僕らが先回りして奪ってきたのだとしたらどう思いますかね?
それを本人の意志の弱さだけの問題でしょうか?僕はむしろ、環境の側にも大きな原因があると思います。
家庭で、学校で、そして職場でも「傷つかせない」「失敗させない」を優先してきた結果、「じゃあどうする?」を自分に問う経験まで減らしてきた。その影響は大きいです。
これは新卒だけの問題ではない
そしてこれを書きながら、あらためて思うんです。
「傷つきました」と言って相手の問題にして終わるのと、「最近の若者は打たれ弱い」と言って本人の問題にして終わるのは、僕には同じ構造に見えてて。
部下ができない。
「最近の若者は打たれ弱い」と結論づける。
本人の問題にする。
自分の指導方法を変えなくて済む。
どちらも「相手が悪い」で終われば、自分は変わらなくて済むじゃないですか。
だから僕は、これは新卒だけの問題ではないと思っています。年齢や立場に関係なく、自分にとって都合の悪い出来事が起きたとき、「じゃあ自分はどうする?」ではなく、原因を外側に置いてしまうことはあるでしょう。
それは、指導される側にも、指導する側にも同じように起こることだと思うんです。
だからといって、「傷つくほうが悪い」わけでもない
「なんだ、結局、傷ついた本人の受け止め方が問題なのか」と思われたかもしれませんが、そういう結論で終わらせる話でもないと僕は思っています。
指導する側にも、当然考えるべきことがあります。
人格を否定することと、改善点を伝えることは違います。怒鳴ることと、指導することも違います。
「俺らの頃はこれくらい普通だった」は、伝え方としては、過去はこんなことがあったという話でしかなくて、正しさを保証してくれる根拠にはならないんですよね。
指導する側も、伝え方を考える必要がありますが、相手を傷つけないために必要なことまで言わないのは、僕は優しさではないって思っています。
求める水準を下げることと、方法を一緒に考えることは別
「傷つけないようにする」が行き過ぎると、「厳しいことは言わない」、そしてやがて「仕事として求める水準まで下げる」という流れになりがちですが、ここにも僕は違和感があります。
求める水準を下げることと、そこへ到達する方法を一緒に考えることは、別の話です。
仕事として必要な水準まで、相手が傷つくからという理由で下げる必要はないでしょって僕は思うんです。
ただ、「できていない、やれ」で終わらせるのではなく、なぜできないのか、何が障害になっているのか、どうすればできるようになるのかを、本人と一緒に考える必要はあるかなと。
要求そのものをなくすのではなく、そこへたどり着く方法を一緒に探す。僕は、これは指導する側が考えるべきことの1つだと思います。
だからといって、手取り足取り教える、先に手本を見せすぎるのもどうかと思いますけどね。
京都でエステサロンの経営を裏で支えながら、僕自身もスタッフと関わる中で、この線引きの難しさは何度も感じてきました。水準を下げれば、その場の空気は良くなります。ただ、それで守っているのは、相手ではなく、指導する側の居心地でしかない気がして。
昔の人が打たれ強かったわけではない
ここで一つ、断っておきたいことがあります。
僕は「昔の人=打たれ強かった」「今の若者=打たれ弱い」と、年齢や時代背景で言い切るつもりはありません。昔の人だって、当然傷ついていた人もいて、メンタルを壊した人もいるでしょう。だから、表に出なかっただけで「昔の人はみんな打たれ強かった」とは僕も思っていません。
これは客観的な事実というより僕自身の実感なんですが。
打たれ強かったというより、傷ついた時に「じゃあどうする?」と自分に向けて考える人は多かった気がします。理不尽に叱られたり、思いどおりにならなかったりして、「何くそ」「次は見返したる」みたいな気持ちもありましたし。
これはコメントをくださった方に対して、僕がThreadsで返信した言葉です。
悔しい、何くそーっ、次はできるようになったる、いつか見返したる。でも、じゃあどうしたらいいんだろう。
理不尽さや思いどおりにならなさを、自分の次の行動へ変換する経験が、今よりも多かったんじゃないか。僕はそう感じています。
「何くそーっ」も「見返したる」も、決してキレイな感情ではありません。負けん気とか、意地とか、あまり褒められた響きの言葉でもないです。
少なくとも子どもの頃の僕にとっては、「何くそ」や「見返したる」は、自分を動かす燃料になってきました。この感覚は、後で話す「思いどおりにならないことのほうが多い」という前提と、僕の中ではつながっていますね。
僕は「昔の理不尽な指導にも意味があった」と全面的に肯定してるわけではないです。理不尽そのものは僕も肯定はしません。でも、親も先生にしても、近所のおじさんおばさんにしても、アカンことをアカンって教えようとする愛はあった気がします。
僕の周りの人たちだけかもしれませんが、見て見ぬふりをするようなことはしなかったなって、パッと脳裏に近所のおっさんおばさんの顔が浮かびます。
理不尽を肯定することと、思いどおりにならない出来事にぶつかったとき、「じゃあどうする?」と自分に問い直すことは別です。
そういう経験は、大人になるまでのどこかで積んでおいたほうがいいし、大人になってからだって必要です。昔の地域の子どもと大人の関わりには、その経験が自然と含まれていたように僕は思うんですよね。
仕事も人生も、思いどおりにならないことのほうが多い
ここから先は、指導論というより、僕自身の人生観に近い話ですが。
一生懸命やっても、報われないことって多々あるじゃないですか。
頑張ったのに、思うような結果が出ないこともあります。思いどおりにならないことのほうが多い。そんなもんやろ、と僕は思っています。努力の方向性が間違えているとか、頑張りかたが足りてないとかもあるでしょう。
それでも、コツコツ続けてきたことが、ときどきうまくいく。思いどおりにならないことのほうが多いからこそ、その「うまくいった」がめちゃくちゃ嬉しいんだと思います。
失敗する。
注意される。
評価されない。
頑張っても結果が出ない。
思いどおりにならない。
仕事にも人生にも、これらはずっとついて回ります。全部なくすことなんてできません。
働き方を選ぶとは何かを考えたときも、同じ結論にたどり着きました。欲しいメリットだけを選ぶことはできなくて、引き受けるものまで含めて選ぶしかない。仕事観というのは、結局そういうところに落ち着くのでしょうね。
「じゃあ、どうする?」と考えて、また動けること
失敗や不快な出来事を、人生から完全に取り除くことはできません。
だとしたら大事なのは、それらをなくすことではなく、傷ついても、失敗しても、思いどおりにならなくても、「じゃあ、どうする?」と考えて、もう一度動けることです。
新卒に何かを教えるときも、自分自身が何かに直面したときも、大事にしたいのはここです。
傷つかないように守ることより、傷ついても、失敗しても、「じゃあどうする?」と考えて、また動けること。僕は、そっちのほうがずっと大事だと思います。
「最近の新卒は打たれ弱い」で終わらせる前に、指導する側の僕らも、「傷つけないこと」と「傷つく経験を奪うこと」を混同していないか、自分に問い直す必要があると思っています。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
今回書いた「傷つけないことと、傷つく経験を奪うことは違う」というテーマは、実際にスタッフと関わる現場でも、日々考えさせられていることです。人との関わり方や、居心地のいい場所と安心できる場所の違いについては、また別の場所で、もう少し踏み込んで話せたらと思っています。





















